スピノザ『エチカ』(岩波文庫 畠中尚志訳)

 『エチカ』新訳は淡々とした訳で、すーっと入ってくるという感じがする。そんな感じを抱きつつ、以前にも書いたことのある、個人的に気になっている第5部定理23の備考の中の、ある部分を読む。「じっさい事物を見たり観察したりする精神の目は、もろもろの証明そのものなのだから。」。畠中尚志氏の訳は「つまり物を視、かつ観察する眼がとりもなおさず〔我々が永遠であることの〕証明なのである。」ドゥルーズやフレデリック・ルノワールの解説ではたしか、論証とは精神の目だ、というような表現だったと思う。論証とは精神の目、という方が自分にはわかりやすいと思ってたんだけど、前後の文脈からするとなにかしっくりこない気もしていた。といいつつ、同じことを伝えようとしているのに、実は自分が全く分かっていなくて、大勘違いという可能性もあるのですが。個人的には今のところなんか違うような気がしてるので、まあ少し違いがあるんじゃないかな、という前提で考えることにしよう。  『「神」と「わたし」の哲学』(八木雄二著/春秋社)の中に主観的真理ということが書かれていて、P.161「わたしは、真理には、客観的(対象的)なものと、主観的(主体的)なものと、二つあると言う。なぜならスコトゥスによって提示された「直観認識」は、主体的に直接的であって、まったくの「主観」だからである。」とあった。  スピノザの第三種の認識は直観知だった。ドゥルーズは第5部は第三種の認識によって書かれていると、書いてたと思う。そうか、精神の目は第三種の認識からの精神の目、ということなんだなと思い至る。それだから、その目から物事を見る、観察するというのは、直観認識による真理の把握、ということだと考えていいかしら。  スピノザは言葉も表象にすぎない、と書いている。幾何学的証明は言葉で進めるしかないが、これは第2種の認識(理性、共通概念)によって表現される世界。確かに一般に理解されるようにするにはまずは言葉で表現するしかない。しかし、真理に近づく方法ではある。けれど、「おお、そうなっているのか!」とか、「おお、そういうことなんだ!」というような心身全部で実感するものの真理(=主観的真理)は、言葉だけで表現されるものではない。ということなんだろうな。  という考えからすると、上野修氏訳で読み進めることができる。ただし、字面を追っていってもよくわからない。なんとなく読んでしまい、なんとなくぼんやりしたまま進んでいくだろう。  そんなことを考えつつ、この直観認識に至る、というのは「稀であるとともに困難である」(畠中尚志氏訳)よ。
 國分先生の『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)は、すごい本だ。まずはそういう感想。何度も読まなければならない。僕は『エチカ』が好きなので、それについて書かれているところをとりわけ繰り返して読むのだけれど。感想を追加すると、鑿の一閃、揺るぎなき彫刻、によってスピノザ哲学・倫理の輪郭がガチっと現れる、とでもいう感じ。今までほわっとしていた姿が明確に削り出されてくるような。  挙げればきりがないけど、P.188からの、「「意識は原因について無知である」という単なる否定的な説明に留まることはできない。・・・意識は目的を知っているのである。・・・」。鑿の一閃だ。スピノザ哲学、倫理を実践するためには、考えを進めていかなければならないという決意。『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書)p.124では、「意識は行為において何らかの役割は果たせるのです。」というところからより実践へ向けて彫り進められる。  『はじめてのスピノザ』P.122、「では意識とは何でしょうか。スピノザはこれを「観念の観念」として提起しています。」から、『スピノザー読む人の肖像』P.195「・・・しかし、あらゆる観念の観念が意識であるわけではない。」ドゥルーズの解釈からのさらなる踏み出しによって、より実践的な行為へと導いてくれる。鑿の一閃、揺るぎなき彫刻刀の進み。  P.346について書くのははやすぎるかもしれないけれど、すんごいんだなあ。「・・・言葉で説明できるのは能動性までである。自由は言葉で説明できる水準には位置していない。・・・だとすれば我々が本当に『エチカ』を理解したと言えるのは、我々自身が『エチカ』の言う意味で能動的に生きて、ある時にふと、「これがスピノザの言っていた自由だ」と感じ得た時であろう。倫理学という実践的なタイトルを与えられたこの書は本当に実践的な書である。スピノザは言葉を用いて、言葉が達し得る限界にまで、我々を連れてきてくれたのである」。そして、國分先生も言葉を尽くして語りつつ、我々の倫理の実践が大事と説く。  この本をまた形容するなら、『エチカ』を自転車的乗り物と考えると、最初から進むにはギアがなくて重すぎる。5段ギア的である國分先生の本を装着して、進みやすくしながら段々ギアを落としていく。そして『エチカ』をノーギアで漕いでみる。時に坂道ではまたギアを入れて進み、いつかは『エチカ』号と一体になって進む、そのための最強のギアだ、という感じでしょうか。僕なりの形容でしかないですが。  もう何年も前に『1945年の精神』というDVDを発売するときに、ブレイディみかこさんのご提案により、國分先生の映像を撮るという、ありがたい機会に恵まれた。國分先生のご自宅にお伺いし、撮影する予定だったが、あいにく道路工事の大きな音によってご自宅での撮影は断念。近くの公園での撮影をご提案頂き、そこまで歩いていくことになった。先生はその頃『中動態の世界』の最終校正の時期だったと思う。おぼろげな記憶なのだが、先生はその本の主題について考えることによって、スピノザについてどうしてもわからなかったことがわかるようになった、というようなことをおっしゃっていたように思う。僕には全く分からなかったので、何も言えなかった。僕は話をそらすように、スピノザの「永遠の相の元に」というのはどういうことなんでしょうか、という質問をした。いやあ素人がいきなり思いつきでしてしまった。先生は「それはまたにしましょう」と言ってくれた。それは今説明しても長くなるし、それを問う前に僕にはまだ考えることがあることを、さりげなく教えてくださったのだと思う。  『エチカー読む人の肖像』P.340の永遠性についてのところ。自身のその時の記憶もあって、この鑿の一閃に感動している。
 『スピノザ入門』(文庫クセジュ)の改訂新版が出たので、早速購入。読んでる途中。2008年に発売されたものは中古だとえらい高くなっていて手が出なかったので、改訂新版として出てとても嬉しい。「<伝説抜きのスピノザ像を描く>評伝の決定版」とコピーにあるのがそそられる。訳者あとがきにあるように、「・・・スピノザ主義の歴史的な「受容」を解説することにある。言い換えれば、本書は、スピノザという哲学者がどのように生き、何を論じ、どのように受け止められてきたか、を解説するバランスよい<スピノザ入門>である。」から、スターに憧れるファンのような見方(?のような)から、もう少し冷静に考られるようになる、かもしれない。これはファンとしてはやっぱり知るべき情報だろうと思う。とは言え、それと『エチカ』のことを考えるというのはまた別の話。  僕のような素人が 『エチカ』を読むと、何度読んでもわからんことや、ピンとこないことが次々と出てくる。こーなのか、あーなのかとうつらうつら考えつつ(考えてないかもしれない)、寝かし、忘れ、しばらく経って、ふと、ああそうなのね。となることが幾度も。しかもそれもこちらの勝手な思い込みという場合があり、それもまたやっぱりそうじゃない、違うわこれ、となって、またグレーになる。  そんな状態なので、また最近ふと気づいたことがあって、それはもう当然とされてることなんだろうけど、自分の中でなるほどと思ったことが出てきた。実体(神)の属性として延長と思惟があって(人間に把握できる属性として)、この世界のあらゆるものが延長と思惟という属性によって表現される。というとき、じゃ、石にも思考があるんかね、と思うのは違うということだった。定義上、実体(神)は延長と思惟の属性によって表現されるのだから(延長⇒物体、思惟⇒観念)、石は実体(神)において延長と属性により表現されたもの、ということなんだなと。なんか僕はおんなじことを繰り返してるみたい。 つまり、石の観念は実体において表現されてる。これは人間にはわからんこっちゃ。ということで、ここで僕は宙づりにしておきまして。しかし、これは『エチカ』を読むと、もちろんそのように書かれてることなのに、どうしても、思惟というと、考えること、という風に捉えているので、わからなくなるんだとわかる。読んでも読んでないということなんですね。こういうのが沢山ある。國分功一郎先生がOSが違うと『100分de名著』で書かれていたけど、そういうことも含めてなんだろうなあ。  それにしても『スピノザ 実践の哲学』(ジル・ドゥルーズ著、鈴木雅大訳 平凡社ライブラリー)はホントにすごい本だ(翻訳がすんばらしいと思う)。『エチカ』主要概念集のところなんてもう最高ですね。これどういうことなんかなと思ってみると必ずその項目があって、超絶的な説明がされてる!ひゃーっすごい~、なるほどー、の連続。  だものですから、クセジュの『スピノザ入門』を開き、気持ちを落ち着けようと思ってます。 
 しばらく前から、“存在の一義性”という言葉がなんとなく気になっていて、全くよくわからないのに、中々かっこいい言葉じゃないかと思っていた。スピノザとかで何かを検索している時に、どこかで見たのかもしれないし、それとは関係なくどこかで見て、ほー、そんな言葉があるんだね、という程度。ある日、時々行く大型の本屋さんでふらふらしていると、『存在の一義性』(ドゥンス・スコトゥス)という本が置いてあるのが目に入った。おお、あるではないか!いや、気になっていたのは、実はそこで何度も目にしていたからかもしれん。その時、たまたま意識的に目に入ったのかも。  全くよくわからない言葉なのに、なんで気になっていたかというと、『エチカ』というのは、“存在の一義性”というのがあてはまるんじゃなかろーか、と思っていたので。いや、これもどこかで誰かが言っていたのを見つけていて、フーンと思っていたからかもしれない。だいたい自分の頭で考えることが実に苦手なので、自分で思いついたというのは怪しい。まあいいや。  『エチカ』からすると、あらゆる個物は神=実体=自然の属性の様態的変状として必然的に表れたもので、不完全なものというのはない。それぞれが自己保存の力だっけな(コナトゥス)によって自らをよりよく維持しようとしている。個物は有限だから外部の影響をひたすら受け続けるので、その影響によって人も物も、変わる。人も物もそれぞれ内部状況が違うので、影響のされ方が違うということ。そんだけだ。『100分で名著スピノザ』(國分功一郎著)のなかで、良い組合せ、悪い組合せということを書かれている。例えばと、トリカブトの例をだされ、自然界においてトリカブトは良くも悪くもないが、人間にとっては悪い組合せとなってしまうというような。組合せの結果、いろんな状態になった個物がある。ということから必然的に導かれるのは、自然には欠陥というものはないということ。我々も自然の一部だから、それぞれ違いはあるけど、それだけ、ということになるわけで。  で、“存在の一義性”ということなんだけれども、そうそう、実体の変状が現れているのがこの世界なんだから、実体が“存在の一義性”ということなんだろうなと。  最近また、『存在の一義性』(スコトゥス)の本が目に入り、ついに初めて手にしてみた!デザインも大きさもいい本だ。でも、パラパラとめくって僕にはわからん世界だと思ったし、裏の7,000円という値段に、ビビって置いてしまった。  それでも気になって、ネットで、一義性、スコトゥスで調べてみたら、どなたかが書かれていたブログにヒットした。そこにはジル・ドゥルーズの『差異と反復』(財津理訳 河出文庫)の上巻の中の「一義的なものの三つの契機ーースコトゥス、スピノザ、ニーチェ」という項目について書かれていたのだった。おお、やっぱりそうだったのね、とちょいと感動。でも『差異と反復』という本は1ページ目から、何がかかれているのかさぱーりわからない本。1行読んで眠くなり、3行目までいくのは三日後だ(わからないまま)。まあその方が指摘されているp.117~読んでみるが、スコトゥスのところはやっぱりよくわからんす(前提となる知識がないと歯が立たないのはあたりまえだけど、面倒なのでそれはやる気なし)。で、スピノザのところに飛んで、いい文章に出合った。p.121「・・・実体が、もろもろの様態の力の度に即して、それらの様態のすべてによって等しく表現される限り、あらゆるヒエラルキー、あらゆる卓越性は否定されるのだ」。「それらの~限り」のところだけでももうよくわからんけど、「あらゆるヒエラルキーとあらゆる卓越性が否定される」というのは、グッとくる言葉ではないですか。この言葉に出会ってよかった。  そして思い直して『差異と反復』を最初から読み始めてみたけど、やっぱりよくわからんので今でも強力な睡眠薬です。  
 読書において読み手の力量はそれぞれなので、読まれる本もそれなりに理解されるということは当然なのだろうけど、最近改めてそれが身に染みる。...
 外出を控えるようになって一か月が経つ。録画した映画を観る、本を読む、酒を飲む、現政権への不満、などが確実に増えてきた。そんな状況なのでネットや小さな書店で本を買い、積読状況にも拍車がかかる。...
 昨年12月、書店でフラフラしているときに、ふと目に入ったのが『スピノザ よく生きるための哲学』(フレデリック・ルノワール著 田島葉子訳(ポプラ社))だ。早速買って読んでみた。スピノザの生き方と哲学がとても共感をもって解りやすく書いてある思う。翻訳もいいのだろう。“自由な思想家”の章の最後の文章に「論証とは、精神の目でしか見えないものを明らかにすることである」とあって、本書の原文では「証明(論証)は精神の目」とあった。上野修のデカルト、ホッブス、スピノザを取り上げた本のタイトルに『精神の目は論証の目』というのがある。『エチカ』第5部定理23の備考にある文章なのだけれど、岩波文庫の畠中尚志訳の文章を読んでもよくわからないままだ(よくわからないところは他にもたくさんあるけど)。 田島葉子氏が上記のように翻訳されたことで、なるほどなーと思った。毎度のように自分勝手に思ったところだけど、証明を進めていって開かれる思考というのは、日常、感情や惰性的な考えは偏見や癖に傾いているのに、それさえも気づかない。けれど、論証というのは、自分の普段見られない(自分の見方を見るというのは中々難しい、というか普通出来ないので)、世界の姿を明示してくれる、ということなんだろう。さらにここの備考は、精神の目は神(実体=自然)の必然の運動と一致しているものなのよ、というようなことも言っていると(勝手に)思っているのだけれど、まだピンときてない。ので、しばし熟成を待ちます。  最近改めて、『エチカ』を散文的に読むのでもすごいのだけれど、スピノザがこの1部から5部までの順で良く読んでみて、上記の論証ということからもそうなんだけれど、随所で『エチカ』の文章に感動するのであった。  それぞれの存在というのは神=実体の変状だから、欠陥品などいうものはないわけで。第4部序言(岩波文庫P.13)に「最後に私は、一般的には、完全性を、すでに述べたように、実在性のことと解するであろう。・・・むしろおのおのの事物は、より多く完全であってもより少なく完全であっても、それが存在し始めたのと同一の力をもって常に存在に固執することができるであろう。したがってこの点においてはすべての物が同等なのである。」とある。すべての物が同等なのだと、いうのを感覚的に言うのはできるし、そりゃそうだなと思うこともできるんだけれど、スピノザはその根拠として、すべて存在は神=実体=自然の変状だからというのを前提としているので、そうなるのは当然のことなんだ、となる。これは単に感情的に思うことではなく、それが当たり前という、実に理性的な思考になる。(「この点においては」という点を読み落としてるかもしれないけれど)  では、その前提としての神=実体=自然を考えるんだけれど、第1部で、それをスピノザは存在を生み出すもの、としていて、それ以上先に辿れないところまで行ったところから始めているので、進み方が揺るがない。  スピノザは神に酔える哲学者と言われたこともあるようだが、この超越的ではない、内在する神(自然)、ということから始める、というのを、スピノザのように内面化する、ということに思いを馳せるのもよいのではなかろーかと思う新年の始まりであった。  今回はだらだらと思うことを書いてしまい、また今度、考えが別様にまとまることがあるかもしれない。
 最近ふと思ったのは、「〇〇せねばならない」「〇〇あるべきだ」的な思考回路で考えていることがほとんどではなかろうか、ということ。もともと考えるのは苦手で、頭の中に言葉が浮かんで、考るというような運動になったのは高校時代以降ではなかろうかと思う。小、中学時代は親から言われるままに生きていたようで(多少の反発もあったとは思うが)、ぼんやり日々過ごしていた。親は子に、世の中はこうなんだから、こうしなさい的なことを言い続ける。こちらは「世の中のこう」というものが正解なんだろうから、その解を出していくのが普通、というような日々。例えばテストとは正解があるもので、その正解を記入すれば良く、とりわけ中間、期末テストは、正解もかなり予測可能となって、〇を得る可能性が高くなる。それで正解を書いて点が良ければそれで日々良しということで済む。つまり、世の中全般には正しいことがあって、それを表現したり、行動するのが良いというように育つ。こうあるのが良い、こうあるべきだ、的なあり方が自然になってくる。  高校時代になると大人びた友達も出てきて、ぼんやりなことに気づかされる。なので、今までは何だったんだ!となる。ここで、自分について考えるようになるのだ。「もっと自分とはなにか考えなければならない」「もっと別の行動をとるべきだ」という思いから、過去に決別し、それまでの友達とも離れ、親には反発し、となってくる。  しかし、もともとどうにも考えるということが苦手なので、考え「ねばならない」、こう考える「べきだ」が基本的な駆動力となっている。ぼんやり時代も、反発時代も、「ねばならない」が基調だ。とはいえ反発時代は考えるのがやっぱり苦手なのでぼんやり遊び呆けているが。  というようなことがつらつら浮かんできたのだが、この「ねばならい」的思考は染み込んでおり、今でもどこかに正解があってそれを探す、見出す、そして世の中の正解に基づいて行動する、という習慣から抜け出てないのではなかろうか、と思う。  話は少々それるが、いわゆるPOSデータなどの分析によって、ユーザーニーズを素早く的確に把握し、一刻も早くユーザーの元に届ける、というような仕組みとは、ユーザーのニーズという正解があって、それを素早く見出し、正解を持つ人を満足させるというこものなのかな。とすると、これも一種の「ねばならない」的なものと言えるような気もする。こういうパターンは実は多いのか?視聴者満足度の高い番組を提供するのが一番で、それがTV局の最も気にする視聴率を上げること、とかも、似たような志向かしら。  しかし、世の中にも、ユーザーの中にも、視聴者の中にも正解はないように思うが・・・。余談的だが、ユーザーニーズ、視聴者ニーズというのを目指すのは、エントロピーが増大してあんまし良くないんでないか。  だから、好きにやろうよ、と言いたいところだが、そういう本人が「ねばならない」的思考だから、「好きに」というのが実は難しい。それにしてもしかし、「ねばならない」的な思考からの解放というのはあるんかな。  「三つのエコロジー」(フェリックス・ガタリ著 平凡社ライブラリー)という本の中に動的編成(agencement)という言葉がある。僕の引用はいいかげんなので信用ならないが、主体とは動的編成されるもので確固たるものがあるというわけではない、とのこと?つまりは「ねばならない」思考も出てくれば、「そうしたい」という思考も、どだい区別つかんものとして混在してるのかな・・・。心の動きをマインドフルに眺めるとなんかわかるかしら。  スピノザ「エチカ」第5部定理31の備考に「・・・精神をあたかも今存在し始めたかのように、またあたかも今物を永遠の相のもとに認識し始めたかのように考察するであろう、ということである。」とある。ここは精神が物を永遠の相のもとに考える限り永遠であることを、より一層理解されるには、このように考えるといいよ、という部分。いやーこれはスピノザは体感してるので、さらっと書いてるが、個人的にはとても興味深いところ。あたかも今存在し始めたかのようにある精神・・・。ああ、「ねばならい」「あるべきだ」思考からの解放の瞬間・・・かもしれない。
 年末に帰省し、1月1日には久々に姉夫婦やらその子供たちやらが集まり、にぎやかな新年会となった。...
いやはや、何度読み直してもなかなか見通せないので、行ったり来たりしながら『エチカ』を読んでいる。 第5部定理22の「しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する」という、本質、永遠性の相、表現する、観念、必然的、という盛り沢山な言葉にめまいを覚えつつ。...

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