中学生の頃までは、多分何も考えてない。言葉で考える習慣がなかったように思う。言われたことを一応するにはするんだけれど、言われたことについての言葉を持ち合わせていなかったし、何かしたいこと(あったっけな)も、言葉で表現していなかった、と思う。高校では新しい友人が登場し、言葉で考えることも少しずつだが出来るようになったような気がする。中学時代の自分に嫌気がさすような感じとなって、中学時代の友達、先輩は友達ではなくなってしまった。高校で顔を合わせても挨拶もせずで、高校でできた友人との関係が始まった。
など振り返ったのは、言語は後から習得するものだということを今頃になって改めて感じたからだ。中学まででは、言語メッセージを身に付ける力がなく、ぼんやりと生きていて、高校生になると、身体的成長によるのだろうか、友人によるのだろうか、言語が少しずつ身につく。けれども身に入る言葉とそうでない言葉があり、それは身体的な反応かもしれない。よって反抗期なるものも出現した。身体的に受けつける受けつけない、生来のものなのか、それまでの環境によるものなのか、多分両方だろうけど、自分の中の何かが芽生える時期なのだろう。そのような傾向が内在しつつも言語的思考が少しずつ発生していった。要は、あーだこーだと言葉が浮かぶという風になっていったということで。
映画『キングスマン:ザ・シークレット・サービス』でコリン・ファースが「マナーが人をつくる」みたいなセリフがあったと思うけど、言語が人を作るんだろうな。共同体に参入する基本的なツールの修得。
しかし、中々これが身につかないんだな。だって他者だもん。などと開き直っても仕方ないけどそうなんだよなあ。言葉で何を考えてるんだろうか。いや待てよ、浮かんでる言葉は単なる印象を言語化してしまってる、感情ではないの?「〇〇はいいね」「〇〇はダメだ」「〇〇は云々」「あの人はどーのこーの」「これはこうであれはこうで」・・・。
スピノザ『エチカ』(岩波文庫)第2部定理49の備考で「・・・観念と事物を表現する言葉とを区別することが必要である」「・・・言葉および表象像の本質は思惟の概念を全然含まない単なる身体的運動に基づくものだかである」、とあるんだが、全くもってそうなんだなと思う。これを読んでいて、なんで言葉が身体的運動なのかね、思っていたところ、自分に浮かぶ言葉を意識したら、ありゃそうだねとなったんだろうけど。まあつまり、単なる印象を言語化してるだけじゃん!
とすると、『エチカ』にある共通概念(理性)は、違う言語使用なんだろうね。ロゴス・・・。
柄谷行人『探求Ⅱ』で、スピノザの単独性というのは個と共同体ではなく、普遍の中の個、ということだ、というようなことが書かれてたと思う。スピノザは、オランダ語やポルトガル語で『エチカ』を書かず、ラテン語で書いたんだね。共同体を超える言語で。『スピノザ 読む人の肖像』(國分功一郎著)P.346に「スピノザは言葉を用いて、言葉が到達し得る限界にまで、我々を連れてきてくれたのである。」とある。言葉を用いるけれども、伝えようとしていることは言葉を超えている、そんな言葉。
いやー、わが身に振り返って、普段浮かぶ言葉はほぼ表象的で印象的なだけで、それは実は身体的な運動であり、しかしそれも実は共同体内の言語で浮かばざるを得ない・・・。仕方ないから、せめてできるだけ意識的でありたいと思う、まだ暑い初秋でした。