かなり前に『探求Ⅱ』を読んでいたけれど、最近、他の柄谷行人の著書を読んで勢いづいて再読しようと手にした。柄谷氏の文体は一文が短く、断定的な調子なので読んでてとても気持ち良いということにも気づき、読むことに惹き込まれていく。
『探求Ⅱ』はスピノザについてかなりの部分を占めるので、以前も手にしていたのだと思う。最近改めて読んでみて、以前は何が書いてあるのか良く分かっていなかったということが分かった。個と類ではなく、単独性と普遍性の対においての単独性としてのスピノザ。普遍性である、神の観念(無限)(概念ではなく)が絶対的な前提となるのは、普通は共同体の内にあることは意識されないために、どうしても共同体の制度内で思考してしまうのだけれども、彼はユダヤ教の共同体からも、キリスト教の共同体からも外れたこともあり、それを考えることができたからだ。いや外れたことが結果であるなら、それに気づいてしまった、気づかざるを得ない思考の旅に出たからだということだろうか。『エチカ』はそこから始まる。無意識的な共同体的価値によって思考することはもはや不可能。だもので、やっぱり國分先生の言うようにOSが違うのであった。
普通『エチカ』を読むに、定理の意味やらを考えて、うんうん唸って悩む。解説や論はその説明をしてくれるんだけれど、内側からだと、わかったようなわからないような気持がぬぐえない。柄谷氏の読みは、別の視点を提供してくれた。別の視点というべきか、『エチカ』がどのようなスピノザの思考に基づいて書かれているのか、それが共同体的制度内の思考ではないところこから書かれているということを明確に示してくれている。それを単独性ー普遍性という対を軸に展開してくれていて、私としてはとても視界が晴れた。
ここからちょいと飛ぶんだが、倫理的実践を考えてみる。『エチカ』(岩波文庫)の第4部定理18の備考で「・・・すべての人間の精神と身体が一緒になってあたかも一精神一身体を構成し、すべての人間がともどもにできるだけ自己の有の維持に努め、すべての人間がともどにすべての人間に共通な利益を求めること、そうしたこと以上に価値ある何ごとも望みえないのである」とある。柄谷氏の言う資本=ネーション=ステートという3つ組の体制内で、ああしろこうしろとやたらとうるさいケア(介護・介助)の制度をどう考えるか。悲しいまでに管理監視制度だけが鼻につくこの業界の息苦しさ。スピノザ的な風が吹き渡るのはいつのことやら。思想としては、ケアとは普遍性としてある、と思う。それは至る処にあるべきであり(べき、というべきではないけど)、普通のことであり、日常であり、感傷的なことではない。単独性として在る者のケア・・・。風の吹き渡る世界のケア、吹き渡らない体制からケア制度は管理監視が行き渡る息苦しいものになる。吹き渡るどころか、資本主義ネーションステートでは、ケアは重荷となり、義務となり、大洪水が来るのは自分の死んだ後でと全体が進みつつ状況は悪化、制度は複雑化し、ますますのしかかり、淀んでいる。交換様式Dにおけるケアっちゅうようなテーマでなんか考えられますかね!?