『神さまと神はどう違うのか?』(上枝美典/ちくまプリマー新書)をなでるように読んだ。P.93の「・・・「がある」は「である」ではないので、その「何であるか」を語ることはできないのです。」、というところはそうだよなあと思った。『RRR』の面白さが何であるかを語りつくしても、自分が感じている胸躍る面白さに到達しない、みたいな感じに近いような気もして。
著者は参考文献のひとつに『エチカ』を上げてるけど(P.236)、「・・・最初からゆっくり読んでいくのが最良です。」と
としている。僕もそちらの読み方が性に合っている、かな。第一部の「神について」から、“世界(実体=自然)が存在する”、ということをベースにして展開されてるので、ベースがあることを意識しつつの方が、読み進めていく上でとまどいが少ないような気がするので。
とはいえ、スピノザが現実存在を含めて存在というのをどう捉えてるのかは、スコラ哲学の存在についての考えを受け継ぎつつスピノザ独自の考えを展開している(らしい。と思っていいですかね)ので、自分にどうあてはめるんじゃ?、というところはある。あるにはあるんだが、『エチカ』の哲学・倫理になぜか惹かれ(なぜかわからない)、それをできれば実践したいと思うものとしては、“世界が存在する”ということを、実感したいと思うわけです。中々言葉でうまく言えないのだけれど、この“ある”というのを“わたしがある”という前に、“わたしがあろうがなかろうがある世界”を前提にすることができた時に、それこそどんな生き方になるのだろーか、ということだろう。
世界とは「何々である」といくら説明しても実感できないのであり、「がある」というところには到達できない。しかし、「である」をこねくり回すのも「がある」に近づく手ではあるのかもしれない。何か天啓のように「がある」ことを直観できることを待つしかないのかもしれないけれど、天啓を受ける準備も必要なのかな、という考えもありなんだろうとは思うけど。
文章が、かもしれない、とか、だろうか、とか、気がするとか、もうー、まだるっこしいね。まあ早い話が、「理屈じゃねえんだ、コノヤロー!とっととわかりやがれ!」的な欲望。
すごく怠惰なので、そのあたりの本をむさぼり読む気力がなく、好きな『エチカ』を読んで、ちょっと気になるところが出てくると、足を延ばしてはみるものの、峰々は高く、登りの手前で景色をみて引き返す状態。知を得ようとする無限後退(後退と言うのかは置いといて)は僕には無理。心身の夏バテに『エチカ』を開く無限ループ!