『誰がために医師はいる』など読んで

 『エチカ』で示されている身体と精神のありようについての考えに驚き続けていて、そういう状況もあって、“こころ”についての本があらためて読みたくなっていた。

 高校1年の1学期だろうか、ぼんやり過ごしてきた中学時代にはいないタイプのませた友人に出合い、「おまえのアイデンティティはなんだ?」と聞かれた時にはボーゼンとし、知らないその言葉と問われている意味に衝撃を受けた。その時からだろうか。岸田秀の『ものぐさ精神分析』シリーズ、小此木啓吾の精神分析本や伊丹十三責任編集だったかな、『mononcle』という雑誌を読んだりして自分は何者なんだ、ということを気にし始めた。授業に全く興味がなく、遊び呆けつつ、なんでこんな怠け者なのだろうかと探ろうとするのだが、探求も怠けて、「アイデンティティ」問題は忘れたわけではないが宙に浮いていた。

 それからしばらくして「アイデンティティ」問題は、個人を考えるより、個人の生きてきた環境の影響について考える方が先ではなかろーか、ということも思い始めた。そして、時代の状況のせいにしたり、パラダイムや構造みたいなことも気になったり、日本人が植え付けられたイデオロギーというこも知ったり、日本語の問題にしたり、何か、目に見えないけれど考えるその考え方を決めている“何か”について考えを巡らすことも続く。基本的な姿勢は、心が空っぽのように感じる自分を、何かで満たす、その何かを探そうとしているのは間違いないと思うけど。(脱線するど空心菜という野菜を見て笑う)

 そういう気持ちがずーっとあるところで、10年以上前に『エチカ』に出会い、心身平行論といわれる考えに衝撃を受け、今もこの考え、そして『エチカ』を、どう生かせばいいんだろうかと思っている次第。

 思いめぐらす日々に、“こころ”についてもまた気になっている。最近読んだものに、心理学者、東畑開人氏が紹介している『精神分析の歩き方』(山崎孝明著)、『誰がために医師はいる』(松本俊彦著)がある。そして書店で偶然目にした『脳はなぜ「心」を作ったのか』(前野隆司著)も。

 『歩き方』は心理、精神分析にまったくの素人にはわからないところがあるんだけど、日本の精神分析や、心理学の世界の見取り図と、今後、また著者の精神分析への思いなどがあって、興味深かった。

 『なぜ「心」を作ったのか』は著者の受動意識仮説は、ちょっとスピノザに似てるところもあるのかな、と思った。あとがきにも色々な哲学者(その中にスピノザもあった)が言ってることと近いという声を読者からもらっているとあった。ニューラルネットワークの活動があって、活動後の結果を感じるのが意識だということで、意識が先にあるのではない。ということ。意識(意志も)が人をコントロールしてるわけではないということですね。

 このニューラルネットワークの活動に影響を与えるものが、生きている環境で、それにより個性が出てくるということ。ふーんそうか・・・。

 そして『誰がために医師入る』を読む。すんばらしい本である。著者の青春時代の友人のこと、患者さんのこと、自分自身の嗜癖も交え、地べたの経験と臨床からの体験が絡み合い、文章の巧さ、展開の巧さがそれを引き立てる。嗜癖障害者の想像を絶する過酷な体験は、意識(意志)ではもはや身体も精神もコントロールできない(嗜癖障害者でなくとも、心身をコントロールできてないけど)。ニューラルネットワークの活動は、あまりの過酷な体験により尋常ではないものとなり、意識(意志)はまさに嵐の海に浮かぶコルクのようということか。

 さてさて、いったいアイデンティティなるものはどこに着地するのだろう・・・。

 17世紀にスピノザが考え、到達した、身体と精神は同じものをそれぞれの属性(延長と思惟)の様態的変状として表現されたもの、という概念は圧倒的な力があるなあ、と改めて思う。