読書において読み手の力量はそれぞれなので、読まれる本もそれなりに理解されるということは当然なのだろうけど、最近改めてそれが身に染みる。
國分先生の「ドゥルーズの哲学原理」を再読すると、例えば前に『構造主義はなぜなぜそう呼ばれるか』(改題「何を構造主義として認めるか」)を読んだ時に勝手に思っていたことは全く理解不足ということがわかった(赤面)。こんなことはしょっちゅうだ。専門家がそれについてとことん調べて、考えて、表現したことについていけることはまれなんだと思う。それと、ある本について、その中のあるテーマに絞って解説する本はたいてい研究書だから、一般人には中々追いつけないということなんだなともわかる。
とはいえ、ここがまた人それぞれであるが、自分としてはもう少し理解したいなと思う時に、単なる解説書ではつまらない、とも思っているから、専門的な研究書とただの概説書の間にある本を見つけるというのは、中々難しい。
スピノザの「エチカ」はなぜか自分には強烈に魅力のある哲学書だから、時々読んでいる。何度も読んでると、前には気づかなかったことに気づくし、改めて発見することが出てくる。前にはやり過ごしていたことが、わからないこととして浮上してくる。今回はなぜか、第1部の定理11に至る証明のところが気になってしまった。ここから「エチカ」はこの証明後にすべてが始まるのだから、それを前提として読めばよいじゃん、と思ってそれ以降を読んでいた。ところがふと、前提はどうやって導いているんだっけと気になった。そこで「スピノザと表現の問題」(ジル・ドゥルーズ著)「スピノザの方法」(國分功一郎著)など、読んでみるが両方とも博士論文なのでやっぱり難しい。そこで前にさらっと読んでなるほどねーでしまっておいた「スピノザの世界」(上野修著:講談社新書)を手にしてみた。とても良かった!
この本は「エチカ」を一般人が理解するうえでとてもいい。スピノザの考え、証明によって導き出されること、神=実体をどう考えるかなどなど、今の私にはなるほどと腑に落ちる。上野氏があとがきで、「手軽に手に取れて、しかもじっくり中に入り込めるような入門書があればいいなあと思っていた。・・・ふだん書いている研究論文では、大きなストロークでスピノザを描くことはなかなか難しい。」とある。改めておおお、まさに私にはぴったりの入門書だったではないか!と改めてわかった。そうして「エチカ」を読む姿勢というか、焦点距離というか、読むときの距離感とでもでもいおうか、何かが変わるような気がする。
一般人が「エチカ」を読んでピンとこない時には、この本はとても助けてくれる。前にはそういう本だと考えずに(気づかずに)読んでいた。こちらがやっと自分で考えてみる、というような能動性が少し出た時に(これが難しいんだ)、実に良い本だと実感する。
しかし、そういうことはよくあるんだろうなあ。考えてるようで考えておらず、ぼんやり読んだり、過ごしてたり・・・。ある時に自分の中に、どうだっけ?とかどうするんだっけ?という疑問が沸き起こる。この沸き起こった時、はじめて自分ごとになって向き合うことが始まる、というようなことは。