きっと会計学なんてことになると違う世界と思うんだけれど、日ごろの経理業務をしているとホントに複式簿記の凄さが身に染みてわかる。会計には、最近では『帳簿の世界史』(ジェイコブ・ソール著:文春文庫)や『会計の世界史』(田中 靖浩著:日本経済新聞社)など注目されているみたいなので、興味のある人も多いのではなかろーか。
最近は会計ソフトで入力するのが当たり前になってきてるから、ルールがわかれば入力そのものは簡単だ。しかし、実際に入力していく人にしかわからんだろうなと思うところがある。極小会社なので、まあ代表といいながら会計処理もするわけです。最近やっと”実感“したことですが、複式簿記は会社の運営というのをただ1点、お金についてのみ表現したものなんだなと(いやまあ、運営とはそういうことかもしれんですが)。ホントにどんな方法でもいいから調達したお金を元手に、それを使って(費用として)、その結果売り上げ(収益として)、それがお金として残る、または残らない。あらゆる行為が結果としてお金に収斂される。それは預金だったり、現金だったりになるわけだ。繰り返すが調達方法は関係なくて、とにかくなんでもええからもってこいや、でないと始まんねー。ということですね。次に何やってもええから最後にはお金にせーや、ということですね。これを表現してる。この複式簿記っちゅーのは、やっかいなのは、あんまし誤魔化しがきかない。やろうと思えば何かしらできるのだろうけど、何かをしたいと思ったらその経緯や意図がしるされてしまう。なんでもええからもってこいやー、という「なんでもええから」の部分も残るし、とにかく売上じゃーの「とにかく」の部分も残る。当たり前でなはいか、と思われるかもしれないけれど、このしるされてしまう、という部分だけでもウームなかなかすごいもんだというのは、入力したもんでないと実感がわかないかも。
それにしても、あらゆる行為の結果としてのお金、お金の価値のみに集約する、すごいぜ、この中世イタリア商人時代?から商人が発達させ進化し続けた複式簿記!
しかし、資本主義が複式簿記的な考えを貫き通してでしか動かないとするといかんかもね、と思うところもある。資本主義と大きく出ましたが、なんちゅーか、『資本論』でいう本源的蓄積、つまり金にするための資産は、農民から土地を収奪することによった、とな。「なんでもええから」もってこいやーということで、暴力的に資産を作ってますもん。ここで資本家が誕生した。ひどいなー。資本主義が地球を覆うと、やっぱ基本は「なんでもええから」持ってきて「とにかく」金じゃーとなると、まあ環境は二の次になるのは必然だもの。これはやばいね。
時代は現代。例えば原子力発電所というのは膨大な費用をかけて作られてるけれど、電力を生み出す設備資産として計上されてるハズ。そして膨大な費用はまずは資産計上し、減価償却費として少しずつ費用にしていきながら電力販売で儲けている。けれど、もしこの原発が廃炉にせねばならんとなると、資産は不良資産となり途方もない損失が発生する、のではなかろーか。それは複式簿記に冷酷に記載され、銀行は直ちに金返せとなる。複式簿記に倫理はなし。地球の問題も関係なし。お金という数字のみ!銀行はチャラ打ちしてくれない(その銀行は信用創造という恐るべき仕組みでこれまた途方もなくお金を生んでるけど。それはいつかまた感想を言いたいなあ)。「なんでもええから」金にせーやの簿記の数字のみで原発がもし止められないなら、これはえらいことだ。恐ろしい倒錯だ。そんな理由のみでまだ止められない、ということはないと思うが(それは恐ろしすぎる)。
しかし、この複式簿記は、今、日本が借金まみれで国債をバンバン発行してお金を調達していて、国民一人当たりの借金が何百万だとか言ってるけれど、だまされませんよという判断にも重宝だ。松尾匡先生などの説明がもっともだと思います。プライマリーバランスなんてのにも苦しめられてはなりませんぜ、と。
いやホント。複式簿記っちゅーのはすごい。