正月に正気を失う

 年末に帰省し、1月1日には久々に姉夫婦やらその子供たちやらが集まり、にぎやかな新年会となった。

 義兄は昔から身体をめぐる色々な考えや、政治的な話題も多く、飲むたびに(会う=飲む、なので)、日ごろ自分も考えていることを語る場ともなっていた。その場に備えてネタも仕込むくらいで臨むときもあった。今回は、他の者も話しに乗ってきて(大人になると、やはり現状やら何やらについてだんだん言いたくなるもので)、数か所で盛り上がっていた。私も知らずに飲みのペースが上がり、義兄の話に相槌を打ちながら何かを話していた、はず・・・。

 そして気がつくと、一人で寝ており、布団の中だった。これは初めての体験だ!がっつり飲んでヘロヘロになって記憶がまだらになることはあったが、相槌打って話していたところから、その後突然記憶がなくなって目が覚めたら布団の中!後で聞くと良く喋っていたらしいが全く記憶なし。まあ酒飲みとはそんなものかもしれんが、ここまで完全に記憶が無いと、これはある意味、正気を失うということだ。その後気絶して、そして意識を取り戻したという。

 いやはや、これは中々興味深い体験だった。

 『エチカ』第3部定理2も風が吹き抜けるようなかっこいい定理で、「身体が精神を思惟するように決定することはできないし、また精神が身体を運動ないし、静止に、あるいは他のあること(もしそうしたものがあるならば)をするように決定することもできない」とある。証明部分、備考部分も含め、なんとなくではあるがなるほどと思えたのは、國分先生の『スピノザの方法』を読み直してからだ。備考には第2部定理7の備考からも明瞭だとあるけど、要は実体の様態的変状としてのもの(人とか)は、精神と身体というそれぞれの属性の原因からそれぞれの属性の結果として表現される、つまり同じものの別表現でしかない、ということ。この第3部定理2の備考はとても面白い。精神が身体をコントロールしているということを全否定していて、身体が何をなしうるのかいまだわからんではないかと書いてある。確かに現在でもわからんことが多いですね。

 義兄の身体話が頭に残り、また、第3部定理2の備考に「・・・次に酩酊者は、あとで酔いが醒めた時黙っていればよかったと思うようなことをその時は精神の自由な決意に従って話すと信ずる・・・」。とあるので、正月の酔いについて考えた。私の場合、入ったアルコールは隅々に行き渡り、身体の、精神の変状を促し、決意など生まれさせもせず、私の口の運動は何かを喋るようになっていたのですね。いやー何を喋ってたのかな。