『スピノザ よく生きるための哲学』を読んで

 昨年12月、書店でフラフラしているときに、ふと目に入ったのが『スピノザ よく生きるための哲学』(フレデリック・ルノワール著 田島葉子訳(ポプラ社))だ。早速買って読んでみた。スピノザの生き方と哲学がとても共感をもって解りやすく書いてある思う。翻訳もいいのだろう。“自由な思想家”の章の最後の文章に「論証とは、精神の目でしか見えないものを明らかにすることである」とあって、本書の原文では「証明(論証)は精神の目」とあった。上野修のデカルト、ホッブス、スピノザを取り上げた本のタイトルに『精神の目は論証の目』というのがある。『エチカ』第5部定理23の備考にある文章なのだけれど、岩波文庫の畠中尚志訳の文章を読んでもよくわからないままだ(よくわからないところは他にもたくさんあるけど)。

田島葉子氏が上記のように翻訳されたことで、なるほどなーと思った。毎度のように自分勝手に思ったところだけど、証明を進めていって開かれる思考というのは、日常、感情や惰性的な考えは偏見や癖に傾いているのに、それさえも気づかない。けれど、論証というのは、自分の普段見られない(自分の見方を見るというのは中々難しい、というか普通出来ないので)、世界の姿を明示してくれる、ということなんだろう。さらにここの備考は、精神の目は神(実体=自然)の必然の運動と一致しているものなのよ、というようなことも言っていると(勝手に)思っているのだけれど、まだピンときてない。ので、しばし熟成を待ちます。

 最近改めて、『エチカ』を散文的に読むのでもすごいのだけれど、スピノザがこの1部から5部までの順で良く読んでみて、上記の論証ということからもそうなんだけれど、随所で『エチカ』の文章に感動するのであった。

 それぞれの存在というのは神=実体の変状だから、欠陥品などいうものはないわけで。第4部序言(岩波文庫P.13)に「最後に私は、一般的には、完全性を、すでに述べたように、実在性のことと解するであろう。・・・むしろおのおのの事物は、より多く完全であってもより少なく完全であっても、それが存在し始めたのと同一の力をもって常に存在に固執することができるであろう。したがってこの点においてはすべての物が同等なのである。」とある。すべての物が同等なのだと、いうのを感覚的に言うのはできるし、そりゃそうだなと思うこともできるんだけれど、スピノザはその根拠として、すべて存在は神=実体=自然の変状だからというのを前提としているので、そうなるのは当然のことなんだ、となる。これは単に感情的に思うことではなく、それが当たり前という、実に理性的な思考になる。(「この点においては」という点を読み落としてるかもしれないけれど)

 では、その前提としての神=実体=自然を考えるんだけれど、第1部で、それをスピノザは存在を生み出すもの、としていて、それ以上先に辿れないところまで行ったところから始めているので、進み方が揺るがない。

 スピノザは神に酔える哲学者と言われたこともあるようだが、この超越的ではない、内在する神(自然)、ということから始める、というのを、スピノザのように内面化する、ということに思いを馳せるのもよいのではなかろーかと思う新年の始まりであった。

 今回はだらだらと思うことを書いてしまい、また今度、考えが別様にまとまることがあるかもしれない。